犬山城
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犬山城 (愛知県) |
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天守
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| 通称 | 白帝城 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 天守構造 | 複合式望楼型 3層4階地下2階 |
| 築城主 | 織田広近 |
| 築城年 | 1469年(文明元年) |
| 主な改修者 | 織田信康 |
| 主な城主 | 成瀬氏、織田氏 |
| 廃城年 | 1871年(明治4年) |
| 遺構 | 現存天守、石垣、土塁 |
| 指定文化財 | 国宝(天守) |
| 再建造物 | 櫓、門(模擬) |
| 位置 | 北緯35度23分17.96秒 東経136度56分21.34秒 |
犬山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にある城。 今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代前後に建造された天守(国宝)を有する城郭の一つである(現存天守)。
別名を白帝城という。この名は、犬山城が木曽川沿いにあり、三国志の劉備が臨終を迎えたことで有名な白帝城も長江沿いにあることから、それにちなみ荻生徂徠が命名したと伝えられる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代・安土桃山時代
- 1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
- 1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ作られたと考えられている。
- 1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる
- 1564年(永禄7年) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。
- 以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。
- 本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
- 1584年(天正12年) 突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。
- 豊臣時代には石川備前守が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
[編集] 江戸時代
- 備前守は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。
- 1601年(慶長6年) 小笠原吉次が城主となる。
- 1607年(慶長12年) 平岩親吉が城主となる。
- 1617年(元和3年) 親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。
[編集] 近現代
明治の廃藩置県で廃城となったが、1891年(明治24年)の濃尾地震で天守の一部や櫓・城門などがこわれたため、1895年(明治28年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。2004年(平成16年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管されている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(43番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 遺構
戦国時代の天守が現存しており、1935年(昭和10年)に国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定、1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づき、あらためて国宝(新国宝)に指定されている。この天守は下の2重2階の主屋が1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。その後唐破風の付加などが行われて現在の姿になった。
廃藩置県の際に払い下げられた建造物として、矢来門が専修院東門に、黒門が徳林寺、松ノ丸門が千秋寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存する。また、どこの門かは不明であるが、幾つかの城門が蓮善寺他に移築現存する。
[編集] 現地案内
- 所在地 - 〒484-0082 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
- 交通アクセス - 名鉄犬山駅または犬山遊園駅より徒歩15分
- 電話 - 0568-61-1711
- FAX - 0568-61-6000
[編集] 料金
- 大人:500円
- 小人:100円

